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プノンペン大学講演

講義「人類は、ひとつ」

~カンボジアがかかえる二つの課題と解決~

2014年11月29日 処 王立プノンペン大学 言語学科

はじめまして、私たちは日本からやって参りました、CEPと申します。

今回はセタリン先生の寛容で真摯なお心のおかげで、皆様とお逢いできることを心より感謝申し上げます。

私たちは約10年間、カンボジアの農村部で井戸や池の開発、米銀行やマイクロクレジットを通して自立支援活動に関わってきました。

今日は新たなプロジェクトとして、仏教的観点からカンボジアの発展について、お話をさせていただきます。

皆さんも御存知のように2011年3月11日に日本は未曾有の地震に見舞われました。マグニチュード9という想像もつかないような巨大地震が発生し、その後大きな津波が押し寄せ、何百キロにわたり日本の海岸線は壊滅的な被害を受けました。

現在も多くの方が仮設住宅で不自由な生活を強いられています。

そして、もう一つの大きな禍が発生しました。それは、原子力発電所が爆発し、メルトダウンし、膨大な量の放射能を放出しました。

そのため、多くの方は故郷を追われ、子供達をはじめとする放射能被害は深刻さを増し、農林業、水産業も多くの被害を受けました。

地震や津波は自然災害です。しかし、原子力爆発は人災です。

実は、人間は原子力をコントロールする手段を持っていなかったのです。

経済発展は私たちに快適な生活をもたらしました。

第二次世界大戦の後、日本は驚異的な発展を遂げ、国民の生活も向上しました。

メイドインジャパンという製品は高く評価され、インフラ整備をはじめ、教育、医療と言った分野も成熟しました。

しかし経済発展の名のもとに、いつしか人命よりも経済発展が優先されてしまい、自分の利益追求の欲が、社会の欲とつながり、結果だれもコントロールできない暴走列車のような姿が今の日本なのです。

カンボジアは現在、めざましい発展を遂げていますが、日本のような経済優先のあり方には非常に危ういものが在るということに気付いて頂き、真に永続的で幸せな発展とは何かということを、ご一緒に考えてみたいと思います。

<本論>(斉藤 大法)~以下講義中ポイントとするところを中心に。

セタリン先生のクメール語からの名訳のおかげで実にスムーズに話が進みました。仏教の専門用語については、カンボジアの僧侶の方々がコメントしてくれた。学生以外に僧侶4名、オランダ人の女性、キエ氏、へイン氏、宗教省の役人の方が参加してくれた。

現人類ホモサピエンスの起源は、アフリカであること、また人類の遺伝子は99.9%まで共通であることが、科学的に実証されています。この事実から人類は、他と言うより皆兄弟のようなものなのです。それにも拘わらず、世界には人種・民族・宗教・国家の違いによる紛争・戦争が絶えません。それは、人間の意識が、まだ科学的事実に追いついていないということを意味しています。仏教は、「人類は皆『和合』すべき存在である」と説いてきました。仏教と科学的知見とは、一致しているのです。

人間の迷い・煩悩の根源は、「おろか、むさぼり、いかり」の三つ(三毒)とされています。 それらは、昔から人間の苦悩の根本原因として問題視されてきましたが、近年はこれにもうひとつの視点を持たなければならない、と思われます。 それは、「市場のフロンティア拡大のために『あおりたてられる欲望』」です。現代の経済システムは、市民に大量消費をあおることによって成り立っているのです。つまり、そのことによって経済成長してゆこうとするのがくな基本的な考え方です。 今日では、古典的な欲望の問題に加え、ここにさらなる現代的問題があります。 また経済のグローバリゼーションとは、国境を越えた経済活動の「自由」を実現するという一見素晴らしいモダンシステムのように思えますが、それは先進国の企業が、各国に踏み込んで自由に経済活動をすることの出来る先進国優位の経済システムなのです。それは、上の図にあるようなさまざまな深刻な問題を引き起こして止まないのが現実です。

現代社会は、欲望を肯定することによって成り立っています。そのことが、様々な問題を引き起こしています。「少欲知足」や「欲望の転換」を説く仏教は、これらの問題を克服する大きな可能性なのです。

以上、ここまでについての質疑・応答(要約)

その質問の内容をいくつか紹介いたします。 ① A 第二次世界大戦後、敗戦の荒廃の中からめざましい発展を遂げましたが、そのことについて日本の仏教は、どんな影響を及ぼしたのですか?(個人的質問)

Q 十七条憲法の第一条「和を以って貴しとなす」⇒(無私の)チームワーク、第二条「篤く三宝を敬うべし」⇒『和』つくりの基礎は、仏教。 以来、長い歳月をかけて日本人の心の中に溶け込み地下水脈のように流れ続ける精神こそが、戦後の復めざましい興を可能とした。それから自分達の伝統や文化に固執することなく、他所の文化の良いところを直ぐに取り入れる精神など・・・・。 ② A 仏教と現代科学の関係について?

Q 現代の脳科学は、人間の深い精神状態をも解明しつつある。すなわち、現代科学は、瞑想状態の脳とは、思考が静止していながら知覚脳は働いているという状態であることを突き止めた。このことは、仏教で言う『無分別』、すなわち事象をフィルター(色眼鏡)がかからずにありのままに観察しているということを意味するものと考えられている。また左方前頭葉が、活性化された状態であり、それは「共感」すなわち『慈悲』簡単に言えば、「思いやり」という精神状態に関係している。

③A色眼鏡がかかっている、ということが分かりません。

Q私たちの心の中には、さまざまな「思い込み」「価値観」「信念」「過去の体験による感情の傷=トラウマ」などがあるために先入観を以って物事や人を観てしまいます。もし、こうしたことから解放された精神状態になることが出来れば、世界中の多くの諍いや戦争は、なくなり平和が実現する可能性があります。

④Aあらゆる現象・事象は、仏法である、と思います。例えば、カメラも仏法(の表れ)にほかならない、と思いますが、これに対して何かコメントを・・・・。

Qカメラ⇒ありのままを写し出す(そうとする)⇒観察・気づき・・・すなわちヴィパッサナー=気づきの瞑想は、こうしたことに通じます。八正道の「正見」。

⑤A経済発展によってもたらされるであろう、貧富の格差や環境破壊を回避するためには、どうたしら良いのですか?

Qそれは、後半の部分で私たちの考えを提示させていただきます。

⑥A科学の発展など時代の変化に対して仏教界は、アップデートしていないと思いますが、どう考えますか?

Qその通り、仏教は単にその教義を学ぶだけでなく、その時代の困難や苦しみを把握しそれらをどのように解決したら良いか、というところろを仏教に求め、現代に解き明かす努力をしなければならないと思います。

<紙芝居上演>(中原 円)

このキサーゴータミーの仏教説話については、多数の学生さんが、聞いて知っておられました。さすがに世界有数の仏教国カンボジアです。しかし、知っていることとこの紙芝居のテーマである死の悲しみ・恐れを乗り越える、ということとは、また別問題であり、仏教は後者の実現にあります。いわゆる経済活動は、その根源において死の恐怖からの回避衝動によって突き動かされています。死の不安や恐怖を越えて生きられる、ということは、この人類の経済活動の果てしない膨張によってもたらされる地球規模の様々な問題を克服する可能性でもあります。そのようなとこにアプローチできる分野は、仏教等の宗教にしかないのではないでしょうか。その意味において仏教は、現代社会における大きな可能性なのです。

<考察・感想etc>

  1. 今回の講義は、経済・環境・貧富格差・社会等広大な範囲にわたるものであり、一方専門家でもない我々の話にどれだけ耳を傾けてくれるだろうかという心配があったが、学生さんをはじめ聴衆の方々が熱心に聞いてくれ、たくさんの鋭い質問を頂いたことに感謝する。それぞれの質問は、カンボジアの真の永続・発展にとって重要なのものと考えられるので今後こうした質疑を活動の中に生かせたらと考える。

  1. 我々のこれまでの研究では、カンボジアの仏教は時代と共に形骸化し、ことにポルポトの内戦により僧侶自身が殺害されかつその後充分な教育がなされていない。また仏教の知識が僧侶の内内に止まり、一般民衆には伝えられていない。という認識でいたが、思っていたよりも(日本に比べ)仏教が社会に息づき生活の中に浸透しているという印象を受けた。法事などでも僧侶により良く説法がされているようである。しかしながら質問に「アップデートされていない」との指摘があるように、伝統を伝統のままに継承すること(それも大切であると思う)が主で時代の変遷に対応するところまで充分に研究がなされていないようである。もともと世の中の人々の苦悩や弱肉強食という自然界の哀しみと向き合い、そうしたことを根本的に解決した平安(な心と世の中)を得ようとしたのが、釈尊の修行の動機であった。この原点の感覚や視点が、いつの時代にも大切であると再確認した。こうした視点が、今後の我々の「心の育成プロジェクト」などに生かされたら良いと考える。

  1. 今回は、かなり社会活動をされているような僧侶が集まってくださったようである。それぞれに大変に良く活動されていらっしゃるような印象を受けた。ただ、それらは個々人やお寺周辺の地域への取り組みはあるものの、カンボジアさらには世界全体に共通する社会システムの問題というスケールについて取り組みについては、やや弱いように思える。またその方向に取り組みたいという意志の表明も残念ながら今回はなかった。協同とかネットワーク的活動、また在家の方々との連携、という方向にもっと開けると良いと思われる。

  1. せっかくプノンペン大学の学生と縁が出来たので、今後共に協同できる活動を模索してみたい。例えば、CEPが村で行う地元の状況に根ざした産業をプノンペン大学で紹介してもらい、それがカンボジアの経済や社会にとってどんな意味を持っているかを学生さんに説明していただくイベントをするとか・・・。そのことを通して一般の方々に周知させつつ、互いに学びや工夫・創造を深めてゆく状況が作れればと思う。

<終わりに>

この講義は、プノンペン大学教授ペン・セタリン先生の以来によって成った。先生は、1974年に文部省の国費留学で来日し、現在東京外国語大学の講師もされている。NHK、テレビ朝日、朝日新聞、郵政省などで翻訳、通訳を務められ、在日カンボジア人に対する救援や地域ボランティア活動。カンボジアにおいても、カンボジアの子供達に教科書を送る運動CAPSEAその他を設立し活躍されている。セタリン先生と我々CEPとの関わりは、岡田久幸氏と鈴木玲子氏との出会いにはじまる。私、大法と三人が、先生が、町田市に経営する喫茶「アンコール・トム」にCEPの考えをお話に行ったことにより今回の講義が実現した。その時に喫茶店に来ていた中原円氏は今回メンバーとして同行することになった。今回の講義内容については、私と岡田、鈴木、日名氏らの作成・推敲による。この他に今回の全体企画は、奥村妙子氏、服部真由子氏の参加、協力があった。

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